明日、4月5日は中国の「清明節」になります。
中国ネタが続きますが、
この日は、中国のお盆のようなもので、中国ではお墓参りをする人が多くなります。
「清明節」の文化は沖縄にもあるようで、中国と同様に死者の魂を迎える文化があるようです。
私が中国に留学していたときには、この日は祖先を祀る大切な日と教えられ、今も国民の「祝日」となっています。
黄泉の扉が開き、死者の魂がこの世へ里帰りされるといわれます。
今回の記事はたまたま死神の記事になりました。
死神の存在について信じている方も信じていない方もいらっしゃるとは思います。
死神がいるか否かについて、私は全く興味が無かったのですが
私の守護天使であるマイケルからいろいろを話を聞いたのでまとめました。
朝から物騒なニュースを見た日の会話です。
世の中にはなぜか不遇の死を遂げる人がいて
もし、そんな目に遭ったら怖いなと思っていた時のことです。
マイケル:「死なせないから大丈夫だよ」
サラ:「でも不安だよ」
マイケル:「不安でも大丈夫だよ」
「そんなことになるのは僕が許さないし、サラの死を決められるのは僕だけだよ」
サラ:「そういうことなのか!?」
驚きの事実だったので
創造主に聞いてみました。
創造主:「守護天使が死を決める…というより、実際はそうなってしまっている」
死の要素はいろいろあるようです。
改めて、人は自分自身の死すら決められないことを思いだします。
死というのは本人が望んでもできないことがあります。
なぜか助かったり。生き残ったり。
それは守護天使が「死なせない」場合があるからなのですね。
さて、人間という存在は自由意志だけでは死ねそうにないということがわかりました。
でも、どうして昔の人は「死神」に「神」を付けたんでしょう。
日本人の感性というか、文化はすごいなと思いました。キリスト教だとこの役割は悪魔が担うのかと思うのですが、日本では死を与えるものは悪魔ではなく、神なのですね。
私はマイケルのことを守護天使と呼んでいますが、
本来、この階層の存在は「神」も所属しているため、「神」とも言えます。
そうすると、創造主との判断が難しくなるのであえて、天使という名称にしています。
生と死を同じマイケルが決めるとは思いもよらなかったのですが
生を司るいうことは、死を司るということと同じであると納得しました。
マイケルは、「死」というもののイメージを教えてくれました。
これは、私が死ぬ時のイメージのようです。
私は上を向いているようです。どこかで寝ているのかなと思います。
笑顔のマイケルが現れ、いつものキラキラとした瞳でこちらを見つめます。
そして、私に黒い布をかぶせます。
そのまま、私の体から私の魂をマイケルのもとへ連れて行きます。
その様子は、まるでマジックのようでした
マントをかぶせられたとたん
サッと
魂が体からはなれます。
そして、その布を引きます。
周りの人は「ただ、私がいなくなった」ことだけを認知しますが
私がどこへ行ったかはわからないのです。
死神がなぜ黒いマントをかぶっている絵で描かれるのか
なんとなく世界共通で、死神は黒いイメージですが
それは、その布で体から魂を攫うからなのですね。
うーん。
「死神」を見ることができる人が常にこの世にいるから、黒いイメージなんでしょうね。
と思うと、マイケルの黒い布も天使の使うツールとして常用されているんでしょうかね。
世界共通で。
今回は死者を迎えていることのイメージが言い伝えと違っていて、印象的でした。
死神は骸骨ではなく、天使であり、にこやかに笑っていました。
そして、その所作の鮮やかさには
爽やかささえ感じられました
仕事をやり終えた!って感じでした。
天使が悲しく死者を迎えるよりも、できるだけこの世の楽しみを充分に享受して、大往生で迎えられたらうれしいですね。