こんにちは、サラです。
いつもありがとうございます。
長らく続いたゴールデンウィークの記事もこれで最後となります。(^_^;)
気づきメインの記事になります。お楽しみ下さい。ーーー
地元には立派な図書館があり、本を借りていました。
本はリーディングに関するすごく古い、書庫にあった本です。笑
結局時間が足りずに途中までしか読めなかったのですが
この本の中に、日本人の弓の名手の話がありました。
弓を何年習っても的を射ることのできない外国人の弟子に、弓の名手は目隠ししたまま矢を的の中心に射るという超人技を見せます。
その時、この名手は「矢を的に当てるということを意識すると、的に当てるという努力をせねばならないが、的が自分であり、矢が自分に返ってくると考える」
といった意味合いの言葉を残します。
それがまるで当然のように思えれば努力などいらないのかもしれません。
努力するということは、努力が目標になってしまうということもあるのだと思います。
そうではなく、「かくある状態に『返る』」と思えば、それが当たり前と思うので受け入れやすいのかもしれません。
これは私の見解ですが、集中するときに下記の二者がいたとしたら、どちらが的に当てられるだろうか?と思うのです。
①的に吸い寄せられるこの矢を、ただ的に返す。私は的だから、ただ矢を吸い寄せればよい。
②腕の方向はこう、風の強さを計算して、的はあそこ、視線はこうで矢尻の向きはこう
ほとんどの選手は②をセオリーにしているかもしれません。
でも、①の方がシンプルで分かりやすいなと思うのです。
そして、的を射ることに対するブロックが微塵も感じられないのです。
これとは直接の関係はありませんが、私は、応用のセミナーの時のことを実家で思い出していました。
「それぐらいのこと、もうできますよ」
インストラクターの先生は、いとも簡単に答えられました。
「ただ、鉄の意思に任せればいいんです。ほら、曲がってもいいんだよって。」
これは、シータのハイクラスなレベルの「DNA3」というセミナーの内容について
先生が簡単に説明してくれた時の言葉です。
鉄をぐにゃりと曲げる内容があるというとの事。
もちろん腕力ではないですよ。
私はまだその資格がないので、どんな難しいセミナーなのかを聞きたかったのです。
さて、ゴールデンウィークの有り余る時間の中
暇つぶしに練習してみたりしました。
分厚いイルカの形をした栓抜きです。
夕飯を食べているときにふとやってみました。
7層に繋がり、集中してインストラクターの先生の言うとおりに、鉄を誘導します。
サラ:「ほ〜ら、そんな頑張んなくていいんだよ」
イルカのしっぽが徐々に重力に耐え切れず、下がってきます。
ほんの少しですが。
傍で黙ってみていた母は
「ん!?なんかしっぽが下がった!?」
と驚いています。
でも、私からすると、「人にこんな形に曲げられて難儀でしょう~。ゆっくりしなよ。」
と語りかけているので、特に驚くこともないといいますか。
もっとぐにゃんと曲がると面白いのになと思っていました。
さて、帰省中にちょっと妹のセッションをした時に気が付いたことがあります。
妹は、苦手な上司の話をしましたが、今まで苦手な人はそのうち何となくいなくなったといいます。
サラ:「どうやって?」
妹:「突然の引っ越しとかでね」
さて、妹の件も含め、いろんな人をセッションしてきますと、ほとんどの場合「意味のない人間関係は無い」と気付かされます。
過去生や役割などの関係上現れてくれた存在なのですが、当人はそれがわからないので、被害者意識を持っていたりします。
サラ:「で、そういう嫌な人は今はもういないの?」
妹:「他の人がいるの。そういう人はどこにでもいるの」
妹は「嫌な人はどこにでもいて、そしてどこかに行くもの」と思っていました。
そしてそれを現実化していました。
実際は、妹自身が役割を与えていたのですが。
友人の場合などは執拗にいやがらせされていたりして、過去生で実は自分が加害者だったことなど、覚えているはずもなく...。
そして今世の加害者と思われる方の潜在意識と会話しても、「これは、正義感の表れだ」という思い込みをしていたりで。
潜在意識の中でも、個人の性格は出ますので、加害者と認識しているかもそれぞれです。
でも、みんなあまり罪悪感は無く、むしろ、やるべきことをやっているという印象です。
改めて、人はその人だけの世界で「思い込みの中で生きている」と思わざるを得ないのです。
では、私はどうなのかというと…
わたしもまだまだ思い込みの中で生きています。
だからこそ、マイケルの言う「フェイクな世界」であるという言葉もしっくりくるのです。
そして、セッションした後は、みなさん「あんなに憎んでいたあいつ」のことをすっかり忘れられるのです。
「あれ?なんで今までイライラしてたんだっけ?」
「何か、今、スーッとした。」
「その名前を聞いても何も感じない」
何年も、何十年も、一つのことに悩んでいて、お互いが自分の方が正しいと思っているのに、お互いがつらい。
正しい理由や常識などで正そうとしても、結局は同じようなことを繰り返します。
ぼんやりと曲がった栓抜きを見ながら、
「鉄が念じるだけで曲がるはずがない」と言い張るもう一人の私の声を聞きます。
この声の主は、矢を的に当てようと筋トレに励むだけで、的に当てることはできないでしょう。
だからこの栓抜きは「少ししか」曲がらないのです。
でもそれは「フェイクな世界のフェイクな常識」です。
人はこの鉄の塊よりもずっと頑固なのかもしれないと思ったのでした。
今回の帰省では、記事に登場していませんが、妹の旦那さんや久しぶりに再会した友人や依頼者さんなど、いろんな方をセッションしました。
今度帰ってくるときには、もっと力をつけて
この栓抜きくらいはぐにゃんと曲げられたらよいなと思います。^^